第2部 Discussion



質問1 プロの写真家は見る者に感動してもらいたいと思って撮ってるのでしょうか?

スティーブン どう見られるかは全く考えてません。相手の為に撮ると絶対に失敗します。自分のために、それが流行じゃなくても、そこにいることが寂しくても、自分のために作ります。

ニク エゴイズムではなく。それは何かをあげている気持ちです。自分のことは考えてません。相手を何か意味のあることを差し上げる気持ちです。美術の世界ではホントのプロの心はアマチュアです。それはイタリア語では、アマールという愛するという言葉からきてます。写真を撮ることは、気を弛ませることが大切で、遊ぶことで無意識に入れるということで、自転車に乗るときは、最初に覚えた自転車に乗る技術を一切忘れて漕いでますよね。向かってる目標に無意識に向いてる。写真もやっていきますと、最初に学んだことの反対のことさえもするようになります。

川上 作品を作るにおいては、主観で撮ってますから、見る側のことは考えません。ただお客さまから依頼されるときは、どういう風に写真を使うかを考えて撮りますね。マチュアの感覚がプロ。

コジノ 全部、人にみられるとか、何を撮ってるのかさえも覚えてないです。真っ白な状態まで自分をもっていきますし、全て、息をするのも忘れる感じ。人に見られることは意識してないかというとそうではなくて、作品は個人で完結することじゃなくて、僕が作品でやってることは、写真があればそれと人なので、それは作品と作家ではなく、作品があるということは同時に人も存在するということだと思ってます。

質問2 (ニク氏の作品に対して〈プレゼンN5を参照〉)この作品の手はなんでしょう?

ニク これは僕の手です。実は偶然この手が入ってしまったのが以前にあって、それから時折この手法を使ってます。ときには太陽の光を遮るために手をおくときもありますが、今は、ほとんど構成上のこの手を入れてます。自分の存在を写真に入れた気持ちです。自分の気持ちとしては桜島を自分が掴もうとしたんです。手の形でも人の識別ができます。18世紀には顔の影だけのポートレイトもあるのですが、ここでは手のポートレイトという意味もあります。

質問3 写真を撮ってるときにランニングハイのように忘我の状態になったりするかも知れませんが、良い作品はそんな状態のときに撮ったものなのか?それともまだ気持ちが乗ってないときに撮ったものなのか?

コジノ あんまりランニングハイは好きじゃないので、あまり興奮しませんね。

川上 被写体によってテンションがあがるときもありますが、自然が対象の場合はテンションは上がらずそれこそ自然体。人物の場合はけっこうテンションが上がります。撮ってるときに出来上がりのイメージができますが、それがいいとは限らなく、また改めて冷静に撮ったりします。だからどちらとも言えない。

スティーヴン ハイというより精神集中。それは周りの音が聞こえなくなるほど集中し、息をひそめる感じですね。ハイよりもむしろロウです。

ニク 5分間もの時間ですから、ハイの持続ってことはないです。

質問4 ニクさんは鹿児島の色にもしかしたら自分が持ってきたのかも知れないと言ってましたが、それはどういうことなのでしょう?

ニク 光というか色は東西ではあまり変わらないが、南北では大きく変わるように思います。私の場合、撮影後のプリント処理でいろいろ手を加えますので、色は自分の主観に負うところが多いのです。それで、往々にしてホントにここで撮った色はこの色なのか、それとも自分が持ち込んだ色なのかという疑問が自分で起こってきたりするのです。友だちは、今回の写真を見せたところ、この写真はどこでも撮られた可能性があると言ってました。私は13歳から10年間はほとんど白黒で写真を撮りました。一番好きな写真集は他人の白黒の写真集です。今はほとんどカラーで撮ってますが、ときには白黒も内容によっては用います。どちらにしても感情を表すということが大事です。以前、写真を撮り始めた友だちに白黒フィルムをあげました。2ヶ月して友だちの写真をみせてもらったら、その中に白黒の写真があってとてもそれが変わっててていい感じだったんです。それでこの写真はどこで、どうやって撮ったのか聞きました。すると彼は私があげたフィルムはカラーと勘違いしていて、カラーのつもりで撮影して、現像もカラー処理してたのでした。

コジノ 色は今回気になってました。僕は色は情報でしかないと思っていて、なるべく色は外してます。鹿児島の色は、海外で感じるのは、色というよりは光の強さの程度かなと思う。晴天の日と曇りでは赤が違う。色が違うってのは光が違うってことかなと。鹿児島の夏は光が痛い。

川上 色というものは自分を通して感じるものですよね。ですから一人一人の脳で感じている。だからそれぞれが感じている色は微妙に違いがあると思う。だから自分で表現したい青を用いても、それを他の人が見て感じるのは、制作者の青じゃないかも知れない。ですから色はあくまでもイメージとして脳のひとつの情報だと思う。自分でも白黒の写真が好きなんですけど、撮るのはほとんどがカラーです。8年くらい前まではほとんどモノクロでした。

質問5 僕は今、絵を勉強してるんだけど、ニクさんのポスターの写真は鹿児島の色をすごく表現してると思う。桜島が描かれている絵画がよく見るのですが、長年鹿児島で絵を描かれてる方々は、自分の感覚で色を使ってますが、それにこの写真は近い気がするんです。ただ、ほかの写真などを見ると、そうでもないと思うので、ルーマニアから持ってきた色もあるのかなと感じました。

早川(司会) 写真というモノは、撮る人の何かの感情が入るものなんだとジョイフルの中国人に見える写真で思いました。カラーというだけじゃくて、全体にオーラがかかってるような気がしました。

スティーブン 感情が写真に現れるということ、また好きなものを撮ったり、嫌いなものを撮ったりして、自分のその日の気分が写真に現れるところが興味深いところで、ニクさんは自分の国から色を持ってきたと言っていた。映画をみんなで見に行くけど、見終わってのそれぞれの抱いた色が違うんです。スティーブンの写真に出てた色は鹿児島の色だと思う。

質問6 コジノさんは中南米を回ってて、写真家だけど写真を撮らなかったのはなぜだったのですか?また、鹿児島でエクアドルを撮ったというのはどういうことですか?

コジノ エクアドルから帰国して撮ったのが今日みていただいたオルタナティブという写真シリーズになります。実は現地では確かに写真を撮りたい衝動はあったので撮ったのです。だけど仕上がりが自分のイメージしたものと大きなズレがあったので、がっかりしてその凹んだまま日々が過ぎたのでした。鹿児島でエクアドルを撮ったという意味は、僕の中でエクアドルを理解できたというのが4年かかったということなんだと思うんです。行ってすぐその国を理解できなくて、多くの人と会って、いろんな感情を理解して初めて僕は撮れるんです。それが消化できたのが鹿児島に帰ってきてからだったんです。

質問7 どうして写真家になったんですか?

川上 好きだからです。趣味で終わらせたくなかった。父も写真が趣味で、家に暗室があって、カメラがそこらに転がっている。自分ではおもちゃのように撮ってたんです。







コジノ 楽だから。デッサンとか音楽とかいろいろ模索してた時期があったんですが、単純にその人を見て、その人を表現するのに絵や音楽だとかなりの手順が必要です。でも写真は押せば撮れるのでいいです。

スティーブン 最初は趣味でした。今は趣味でもあり、仕事でもあります。どこかで写真を撮ることから逃げようともしてきたのですが、写真を撮る人生が自分を追っかけてきた、そんな気持ちでいます。写真撮ることでいただくことが多く、学ぶこともすごく多い。音楽が好きで、音楽が作れるならそれをやりたいが、写真を撮るということはそれに一番近いと感じてます。

ニク 私の家族はみんなアーティストです。それで私も学校の成績ではお医者さんにでもなれましたがアーティストになりました。絵を描き、音楽もやりましたが、写真には一番驚きを感じました。一日何億枚写真が撮られても。まだまだ奥があると感じています。現実と限りなさの交差するところに興味があり、現実はいつか終わるものではないかということに対して写真は限りがないと感じる。現実を永遠を一緒に表現するこの組み合わせが写真を撮るということです。自分にとっては自分の中の何かを表現することができることが写真の意義です。

早川(司会) 今日はみなさん、本当にありがとうございました。 シンポジウム
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