第2回PandAアートミーティング


今回はPandAが運営するアートスクールで水彩・油彩教室の講師をしていただいている画家、城ヶ崎悟氏のギャラリートークです。先生は肝属郡高山町のご出身でいらっしゃいますが、長い画歴において故郷である大隅半島での個展は今回が初めてでした。個展のタイトルを「故郷」としたことについて『これまで「自分を育んできた懐かしい故郷」と、これからたどりつきたい場所、わたしにとっては「新たな故郷」でもあり、「遠い昔から憧れてきた故郷」を深く考えるようになっています。それは描くことと同じだからです』 と述べられています。近年の作品に加えて、若い頃の作品も展示した今回の個展は特別な想いを持って開催されました。個展の最終日にギャラリーを会場として行われたPandA アートミーティングの様子をご紹介します。 日時:2008年5月18日(日) 午後1時~3時
場所:陶芸の里あすかギャラリー
  (鹿児島県鹿屋市花岡町4555)
コーディネーター:早川由美子(PandA 代表)

表現するということは、自分にとって大切なものは何かと知ること

 

今まで多くの個展をやってきて、なかなか作品に向かってじっくり展示するところまでいかないものなのですが、今回の個展は新作や、いろんなところへ出品した作品を改めて見ながら、自分で楽しめたと思っています。

今回、新しい試みとしてそれぞれの作品に数行のメッセージを添えてみました。文を書くことには抵抗があったのですが、私個人の感じ方だけじゃなく、見る人それぞれで、できるだけいろんなことを思い描いていただきたい。その助けになればと思って書きました。絵を描くとき、描きたいイメージは当然あるものの、最初からひとつのテーマがあって描いているわけでもなく、自分の中で漠然と生まれてきたりもします。だけど、自分が考えていることがそのまま、絵に現れるかとというと、そうでもなく、かえって自分が考えていることの反対へいくこともあります。でも逆に、それが表現ということではないかという気がするんです。自分の考えの範囲というものは、限られているような気がしますし、それが作品を作る上での行き詰まりになったりします。

しかし、そこをじっと我慢して自分の作品を突き放してみると、それでも何か語りかけてくるものを感じることがあります。そんなとき、ああ、自分にとって必要だったのはこれだと思うのです。自分を表現するということは、自分にとって必要なもの、大切なものは何かと知ることでもあり、それを探し続けてきたわけですね。絵を描いていますと、これで満足とか、これでおしまいってことはありません。だからこそ、絵を描くことは素晴らしく、ずっと続けていくことができるものだと思っています。

懐かしいという感覚は後ろ向きじゃなく明日へ向かう

 

私は以前に学校に勤めてましたが、描くことを自分の生きる場所と決め、絵描きになる道を選びました。しかし、当初は四苦八苦してあまり作品を仕上げてませんでした。自分の中ではいろいろ考えて、スケッチなどをして、自分では仕事をしているつもりでしたが、世の中の展覧会などには出品しないものだから、周りは絵を辞めたんじゃないだろうかと、思うわけです。「ちゃんと絵を発表しないと忘れられるよ」などと言われたり。だけど「僕はそんなつもりでやってるんじゃない」と、違和感を感じ続けていたのです。公募展への出品は絵を描く目的とは違うということで。

私が生まれたのは大隅半島の高山町で、個展のタイトル「故郷」は、「自分を育んできた懐かしい故郷」でもあり、「新たな故郷」でもあるという捉え方で、懐かしむのではありません。生きてる以上、いろんな生き方を探している。そして、絵を描くということは、自分に足りないところを一生懸命補っていく、そういう気持ちなんです。ですから、常に自分はまだまだこんなものではないんだという、少しでも自然な方向に自分を持っていきたいと思ってきました。故郷は、常に自分の新たなものを探し続ける起点です。私は故郷を離れ、東京に行き、いろんなことを思い出しながら過ごしていたわけですが、結局、自分はどこへ行こうとしてるのかを探してたわけです。

よく私の絵を見て、ホッとするとか、懐かしいということを言われますが、その懐かしいという感覚ってなんだろうと思うことがあります。それはただ振り返るというだけじゃなく、何らかの幸福感につながるものがある。だから懐かしいという感覚は後ろ向きじゃなく、ホッとする明日に向かう充足感でもあるんじゃないかと。

 

絵を描くとそこに自分がある

 

絵描きである以上、自分の表現のスタイルというものを探し求めますが、それは自分って何だろうと考えることと同じことです。個性は自分の中に何があるかということです。自分は当然一人で生きているわけじゃありませんから、いろんな人との関係で生きていて、また、いろんな人から吸収させてもらってます。そして、例えば私の絵を見て、もし真似をしたいというならそれは嬉しいことです。

でも、自分の中に何かがあるとしても、それは今まで自分がどこからかで受け取ってきたことです。じゃあ、その中で自分の個性とは何かというと、あえて自分の個性は考えなくてもいいんじゃないかと思うんです。自分を見つめるとイヤな面ばかり見えてくるような気がするんですよ。今、こうお話してても、外側から自分を、見たくないなあなんて思う。で、本当の自分の姿ってなんだろうって、鏡を見てもそれは逆さですよね。自分って自分の肉眼で見ることはできないんです。だけど、絵を描くとそこに自分がある。そこに描かれた線に現れてしまう。私は最初、絵を始めた頃、人と共感しあえる自然な感覚を持ちたいと思っていました。そういった意味で普通というか、平凡というか、人と同じでありたいという感覚ですかね。

私は絵を描くことを、作品を創り上げたいという感覚じゃなく、絵を描かないと自分はとんでもなく落ち込んでいってしまうのではないかという不安から逃避する感覚で始めました。必死で絵にすがるような、絵しか自分を支えるものがなかったといいますか。だから、絵に代わるものをある意味、ずっと探し続けているのかも知れないんです。だから、もし絵が自分に無かったらどうなっていたんだろうと思いますし、職業画家という立場は本来は不自然なことかも知れないなとも思います。本来絵は、自然な毎日の中で生活を豊かにするもので、例えば自分の子供の絵を額縁にいれて楽しめたらいいんじゃないか、たまには他の人の絵も飾ってみたいなあと思うんです。

内面の変化がいつか表現に出る

小さいとき私の母は、お前は絵が上手だと言ってくれてました。小さい頃は紙が非常に貴重で、私の父が昔もらった賞状の裏が真っ白で非常にいい画用紙として、飛行機の絵などを描いたことを憶えています。しかし、小学校1年のときに、友だちと一緒に展覧会に出したら、友だちは賞をとったけど、私は取れなかった。その友だちの絵はマルと三角の絵でしたが、今の私の絵はマルと三角といった形がよく出てきます。

自分の絵がいつからこういうスタイルになったかはわかりません。試行のようなことは学生時代にもやってますし、デッサンも平行してやっていました。絵を描くということは、自分を突き放して見るというか、簡単に言えば自分を否定するということとも言えます。だから描いて見てみると、自分と違うもの、自分に欠けているものを探すことになります。若い頃から、いろいろなことをいろんな角度から考えるようにしていましたし、だから変化は内面では、いつもあったということですね。そして内部である臨界点に達して、絵画の表現としてでてきたということじゃないでしょうか。

素直な線が描きたいと思たんです。自分の線はとてもぎこちなく、不安な感覚がそのままでてる。だから何本も引いた線から、一本だけ線を選び出していく。具象とは、それは何かと分かると同時に、そのものを通して何かを示すことだと思うのです。

 

天才の作品は誰もが持つ感覚を呼び起こす

私の作品を見て共感していただけたら嬉しいです。展覧会で素晴らしい作品に接したときに、すごいなあ、とても自分じゃ真似できないなという感覚がありますが、ほんとにいいものに対面したときというのは、自分も描きたいなとか、そういう気持ちになるものじゃないかと思うんです。そういう共感だと嬉しいですねえ。今回、私の個展に来た子供が、桜島の絵の前にきて「ああ、私より上手だ」といって、褒めてくれたんですね(笑)。それも嬉しいですね。

誰もが内面にいいものを持ってますから、本当にいいものに触れたときって、同じようなものを見たという感覚を受けることがあると思うんです。ユトリロ、モジリアーニ、ゴーギャン、ゴッホとか、やっぱり感動する人間に共通の何かがあるんですよ。いい作品を前にすると自分の中にある忘れていた何かが触発されて、共感して、それこそ懐かしさを感じる。つまりそれは誰もが元々持っていたもの。それを引き出してくれるのが、つまりいい芸術作品じゃないかと。

いい作品は、自分の中からそういうものを引きだしてくれます。それは懐かしさという感覚かもしれませんし、自分にもできるという感覚かもしれません。だから、ほんとの意味での天才の作品は誰にでもある、そういう感覚を呼び起こさせてくれる作品じゃないかと。共通する、同じ土台のものを感じさせる。人との違いがあり、同時に共通する何かを持っているようなことなんじゃないでしょうか。

 

削ぎ落としていったらユーモラスになった

個性はみんな持っていて、みんな違う。個性的であろうとする必要はなくて、違ったデッサンをしようということでもなく、むしろよけいなものを削ぎ落とすこと、追いつめるだけ追いつめるというような。普遍的なものを表現するのが天才なんじゃないかと。

私の作品はユーモラスとよく言われることがあるんですが、自分ではそう描きたいとは思っていないんです。シンプルというか、いろいろなものを削ぎ落としていくと、残ったカタチがああなったわけで、結果的にユーモラスになったということです。そういうカタチをいっぱい描いてだけど私はもともと人を描きたいというのがあって、いろんなカタチの煙突を描いていて、その横に一人人間を描いたんです。そして、それを見て、タイトルをどうしようかと考えて、煙突になった男というのが生まれたんです。

これからもまだまだ、自分の表現を追求して、自分にとって大切なものは何だろうかと、それを探し続けていきたいですね。

城ヶ崎 悟(Satoru Jyogasaki )

プロフィール

1950年
鹿児島県肝属郡高山町に生れる

1973年
多摩美術大学絵画科油絵専攻卒業

1979年
第34回南日本美術展第5回海老原賞

1989年
吉井記念末吉町洋画展吉井賞
第1回「風の芸術展」
ビエンナーレまくらざき佳作賞
第6回伊藤廉記念賞

1991年
第9回上野の森美術館油絵大賞展
特別優秀賞(彫刻の森美術館賞)

1994年
明日への16人展(上の森美術館)
風まくらざき現代美術選抜展
(1996にも出品)

1996年
第39回安井賞展
田川市美術館大賞選定「英展」
大邸亜細亜国際美術展

1997年
第5回「風の芸術展」
ビエンナーレまくらざき大賞
鹿児島県芸術文化奨励賞

2000年
第9回 青木繁記念大賞公募展
(石橋美術館・福岡)
第29回 現代日本美術展 賞候補

2005年
作家の視点
-上野の森美術館大賞展入賞者展
アートミーティング